僕の航海記(98年後半)

前回の記事:僕の航海記(98年7月 短絡的決意)


前回は起業を決意する短絡的な思考背景を綴りました。
前回紹介した通り、ここから苦難の1年半が始まりました。
苦難は今でもしていますし、案件一つ一つを紐解けば、その時々「このトンネルは出口があるのか?」の様な思いは何度もしましたが、この1年半はとにかく仕事にまったくありつけませんでした。


さて、起業を決意したもののVCや銀行巡りをして資金調達なんてことは一切しませんでした。
しなかった理由は簡単で、思いつかなかっただけです。
とはいえ、銀行だろうとなんだろうと借金だけは絶対したくなかったので、思いつくはずもなかったというのが正解です。
両親が手持ちの資金だけで個人経営の学習塾を開いていたのを幼少より見て来ていたので、法人にしようとも思いませんでした。
結果的にはこの半年後に有限会社にするのですが、この時はまったくそんなことは意識せず、宣言した日が、行動した日がすべての始まりであり、それに何の違和感も抱いていませんでした。


まず始めにしたことが、PhotoshopとWordを駆使してA3サイズのチラシを作りました。チラシには、これからはインターネットの時代である、あなたのコンシューマーのためにホームページを作りませんか的なことを書いたと思います。
※恥ずかしいからいいんですけど、残念ながら当時のデータはすべて消失してしまいました。


このチラシをEPSON PM-2000Cと言うA3対応のインクジェットプリンターで200枚ほど印刷して、埼玉県内のパチンコ店に封書で送りました。住所は埼玉県内の主要駅近辺の電話ボックスでタウンページから漁りました。
※そういえばここ数年ハローページって見てないなぁ。


結果は、、、待てど暮らせど電話一本鳴りませんでした。
当然ぼーっと待ってた訳ではありません。勝手に始業終業時間を決めて朝8時〜夕方5時までは電話が鳴るのを待ちつつ、自宅にあったタウンページと合わせて、控えてきた住所録をもとに片っ端から営業電話をしました。この飛び込み電話大作戦はその後1年近く続けられ、タウンページでめぼしいところが底をつくと、新聞のチラシ、ポストに投函されていたディノス千趣会、不動産からホテルまで「社名+電話番号」を見たら、業種分けをして、日別に業種ごとに殺し文句の準備と下調べをして電話をしまくりました。結果的にだれも殺せませんでしたが。。。
後日ブログで紹介したいと思いますが、この電話で1社だけ相手をしてくれた会社があります。いまでも私がお客としてお世話になっていますが、ampmさんです。今でも名刺は大事に取ってあります。


このとき、電話をかけている最中にかかってきてもよいように、ISDN回線を1本増やしiナンバーを使って2本受けられるようにしていました。
※このころ私のIRC友達周りではテレホーダイのおかげもあってISDNの普及率が急激に高まりました。またなぜかISNDを「いすどん」と呼んでいましたが、私の周りだけですかねぇ。


就業時間前後は勉強の時間です。
この頃も、朝6時から夜4時まで就業時間以外はずっとパソコンに向かって、Perlの勉強と各種ソフトの使い方の勉強をしていました。


この頃の勉強方法でも今でもためになぁと思うのは、メーリングリストメイリングリストとも書いておきます)の活用です。
入会時期(購読開始時期?)はバラバラですが、JavaScript関連のjs-ml、CGI関連のcgi-ml、Apache関連のapache-users,apache-tech、FreeBSD関連のFreeBSD-users-jpなどに入会していました。
98年後半だと、Twittermixiはもちろんのこと2chもない時代です。今読み返すとなんてKYで厚かましくて、素人丸出しなんだろう。。って質問にも皆さん丁寧に回答してくださいました。
js-mlのTさん、Fさん、Hさん、FreeBSD-mlのTさん、Apache-mlのKさん、Aさん、Tさんなどには大変お世話になりました。
※上記の方の中には直接質問にご回答いただいた方もいらっしゃいます。その節は大変お世話になりました。
mysql-mlに顔を出し始めたのは2002年以降だと思います。


これらのメーリングリストですが、人気の高いMLには一日数十通のメールが飛び交っていました。
どんな失礼な質問だろうと、自分で調べる努力をまるでしない教えてくんにだろうと、皆さん丁寧に回答され、スルーなんてほとんどありませんでした。
こうした互助精神(?)に感動し、インターネットという未知の仮想世界も人と人のコミュニケーションが、リアル同様、場合によっては顔が見えない分より丁寧に育まれていくんだ、とわくわくしていました。


メーリングリストでは誰かの質問に誰かが答えるのを眺めていたり、自分の質問に答えてもらうだけでもいろいろと勉強になりましたが、当時の私は若く怖いもの知らずだったので、無謀にも回答者に回り始めました。
おそらく98年12月〜99年秋頃までだと思うのですが、兎に角、暇さえあればMLをチェックして回答することをほぼ日課にしていました。
自分の力量もあったのでjs > cgi > apache > freebsdの順で回答ができていたと思います。
※当然とんちんかんな回答をして、上記の方達に訂正いただいたこともありました。


なかでも、cgi-mlとjs-mlは回答するときに、ソースや動作を直接見てもらうのが相手にも他の購読者にもよいだろうと考え、自分のサーバーの一角に回答用の領域を作り、そこにサンプルを作って、テストし、動作確認をしてから、質問への回答と、サンプルURLをつけて返信する。この作業を繰り返ししていました。
質問メールを見たときは自分では分からなかったり経験がなかったりしたことでも、ネットや本を調べ解決方法を探し、実際にコードを書き、動作確認をしてから返事を書いていました。
折角一生懸命しらべて、具体性のあるサンプルを作っているのですから、この作業中にほかの方に回答されて問題が解決してしまうと、水の泡です。
この修行(?)のおかげで、問題の切り分け、調査、相手に意図を伝える最低限のプロトタイピングを短時間で行う力が少しだけついたと思います。
こう言った事をする前と比較したら飛躍的に技量が成長した時期だと思います。


今、自社ではIRCを導入しています。よっぽど間違いがないことに100%の自信がもてるものでもない限り、調べる>試す>答えるのプロセスは必ず経ます。
若い子の中には、自分より技量が上の人がいる場所では知っていても間違っていたら恥ずかしいと思うのか、なかなか積極的に回答しようとしない子や、試してから答えればいいのにと思う間違いをする子が多い気がします。
こういう子が多いのは、私が厚かましいだけだったのかもしれませんが、この頃以降ネットの性質に変化が現れ始めたのも要因かと思います。叩く、disるなんて言葉に代表される行為で気の弱い子は萎縮してしまうのでしょう。
リアルの世界でも十分あることなので、萎縮しすぎる必要はないと思うですが、ネットでは一瞬で多くの人に情報が伝わるのでやむを得ない気もします。


よく失敗が大事なんて言われますが、失敗そのものもよりも失敗を恐れず経験することが大事だと思います。
ただ、失敗の方が後悔(後で悔やむ)や反省(行いを省みる)をしますので、過程を見つめ直しがちと言う点でよいと言われるのかもしれません。
成功してもなぜ成功できたのか省みることは重要です。まずは行動し経験しなくては成功も失敗もできません。
こんな所にもPDCAが出てきました。計画>実行>評価>改善、大事です。


この後のブログでもISMSITILPMBOK、WaterFallなど仕組みやフレームワークについて言及することもあると思うのですが、これら枠組みや体系はなにか狭い領域のものではなく、多くの体験を体系立てて言葉にしているに過ぎません。自分の何気なくしていた行動が、言葉にされてみると「ああ、それそれ」って結構あります。逆に、後でそういう本や仕様を読んで「ああ、これ知ってたら。。」ってことはもっとあります。


メーリングリストを使った勉強方法の話からPDCAサイクルの話へずいぶん飛躍してしまいました。


結局のところの、僕の98年後半は一つの仕事も取れずに5ヶ月が過ぎただけでした。


次回は、99年。法人設立し無謀な挑戦を拡大し、悉く返り討ちにあうところを綴りたいと思います。